プラネット・カーモス『Ⅰ.ヒトとエルフの歳の差千年なれど』

Prologue.旅立ち。自ら望みしこと。

世界に未練がないのは、おれがいないから。


「これはまた——圧倒されますね」

 我ながら抑揚のない声音だ。
 とても圧倒されている人のそれではない。
 こんなだから、お前は何を考えているのかよく分からないなどと口を揃えて言われてしまうのだろう。

 まあ別に他人にどう思われようとおれは構わない。
 家族だろうと自分以外は全部他人だし、他人におれの考えが読めるはずがない。他人の考えを読むとはつまり、想像するか慮ることなんだろうけど、おれに対してそんな労力を割こうという人も希に違いない。

 住み慣れた孤児院。その庭。
 地面の上に銀色のアタッシュケースが山積みにされていた。
 おれは感慨もなくそれを眺める。
 一つのケースに対し1億円分の札束が詰められているはずだ。それが計100個。100億円。

 圧倒、される光景なのだろう。
 いやに几帳面に積まれて陽光を反射するアタッシュケースの群に対してではなく、多くの人はその中身の価値を想像して圧倒されるはずだ。

 ——ただの紙切れじゃないか。

 ふいに思ってしまうおれは、やはりこの光景になんら感情を抱いていないのかもしれない。

「お約束通り101億、用意致しました」

 アタッシュケースの山の隣で、恭しく言うお兄さんがいた。
 101個目のアタッシュケースを手にし、おれに向かって差しだしている。

 歩み寄ってそれを受け取る。
 お兄さんが手を放すと予想外の重さで身体がつんのめってしまった。
 頭の上でお兄さんの微笑んだ気配がした。

 両手でなんとかケースを持ち直す(14歳で小柄なおれにはそれでもけっこうな重さだ)。
 顔を上げると予想どおり、朗らかな笑みを湛えているお兄さんがいた。
 現代ニホンでは珍しい和装を纏っている。静かな藍の様相だ。
 その色に映えるようにお兄さんの瞳は深く紅い。
 腰には一振りの刀を帯びているが、なぜか鎖でぐるぐる巻きにして抜刀できないようにされていた。

 ——そして額には二本の角が生えている。

 普通の人間には角などない。
 つまり目の前にいるのは人間ではないということで、

「鬼だ」
「はい。鬼にございます」

 独り言のつもりだったけど、朗らかに返されてしまった。

「お金、ありがとうございます」
「いえいえ。正当なる対価ですから」
「対価、ですか」

 人ひとりの身に値段が付けられるというのは何だか不思議に思えたけど、それもまたこの世の真理なのかもしれない。
 孤児で何の取り柄もないおれの価値が101億円というのなら、それは喜ばしいことなのではないか。

 そう合点した。合点しながらそれでもやはりおれの価値は紙切れなのかと心のどこかで思った。

「もう一つの条件も呑んでもらえたんですよね」
「もちろんでございます。一、ヒト族・木崎ハルの身柄と引き替えに101億円を譲渡する。二、このうち1億円は木崎ハルに、残る100億円を全国の児童養護施設に公平かつ直接配布する。またこれをニホン国首脳に知らせる。——よろしいですね?」
「はい。それでお願いします」

 今おれが手にしているのは1億円の重みだ。
 だからどうということはないけど、これで弟妹たちが少しでもうまくやっていけるといいな。

 おれは鬼のお兄さんに背を向ける。
 よたよたとケースを運びながら、少し離れた場所で見守っていた先生のもとへ帰った。

 少し距離をおいて立ち止まり、目の前の地面へケースを置く。
 自然と、ケースが先生とおれの隔たりとなった。

 何だかやたらに重い荷物から解放された気がした。

「先生。これ、少ないですけど育ててもらったお礼です」
「……ハル、本当に行くのか? 今からでも私が……」

 複雑な表情をしている先生。
 あらためて見ると老けたな。
 優しくも厳しい父親であろうと毎日必死におれたちを構ってくれた。

 いろんな表情を知っているけど、こんな顔をされるのは初めてで、もしかしたら泣き出してしまうのではと心配になる。
 それを恥ずかしいことだとは思わないけど、やはり大人のそういうところはあまり見たくないとも思った。

 物心つかないころに捨てられたおれを育ててくれた人のそんな顔には、さすがのおれでも感じるものがあるようだ。

 おれはどんな顔で応えればいいのだろう。わからない。

「おれが自分で決めたことです。あいつらを頼みます」

 まだ早朝。弟妹たちは施設の中でぐっすりのはずだ。
 もう1時間もすればだんだん騒がしくなっていくのだけど。

 そんな日常から自分が離れていくのだと思うと感慨深いような気もする。
 気がするだけなのかもしれないが。

「行ってきます、先生」
「……元気でハル。いってらっしゃい」

 一瞬、先生の手がこちらに伸ばされようとしたのが見えたが、すぐにだらりと下げられてしまった。
 かわりに多くを語らぬ別れの言葉をくれた。
 先生のこういうところは好きだな。

 もう一度先生の顔をじっと見つめてから、また踵を返した。
 待っていたお兄さんのもとへ歩み寄る。

「もうよろしいのですか?」
「長引けば別れがつらくなりますしね」
「ふふ、面白い方だ。そんなことは微塵も思っていないような顔をされています」
「あいにくと生まれつきこういう顔なんですよ」
「左様でございますか。——ほんとうに面白い」

 ほんのわずかな瞬間、お兄さんの眼光が鋭く怪しいものになったのを見た。
 微笑んだ口元に凶悪そうな牙が垣間見える。

 へぇ、とおれは思った。

「最弱の種でありながら、最上位種である我が主に喧嘩を売っただけのことはある」
「人聞きが悪いですね。あれは公平な交渉事ですよ」
「これは失礼いたしました。あくまで褒め言葉と受け取り下さい。——1億の提示を101億にまで引き上げたその知性。そしてその異様な心の在り方。僭越ながら私も貴方様の今後が楽しみです。」
「まあ、あちらでは人類はすぐに死んでしまうと聞きましたけどね」

 あちら側。これからおれが向かう世界。
 おれはそこで何をするのだろう。

「ご安心下さい。貴方様の師となる優秀な人材を用意しておりますゆえ。さあ、それでは参りましょう」

 お兄さんの背後に真っ黒な何かが現れた。
 トンネルの入り口のようで、丸い。

 お兄さんはためらいもせずその中へと消えていった。

 迷わずおれもそれに続いた。
 まだ背後で見守っているだろう先生と、育った孤児院を振り返ることはついになかった。

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